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上野公園について

ここで目覚しい発展があったのですね。
これには驚くばかりです。

江戸時代、三代将軍・家光が江戸の丑寅(北東)の方角、すなわち鬼門を封じるためにこの地に寛永寺を建てたのが始まり。戊辰戦争時には彰義隊がここに立てこもり、伽藍は焼失、一帯は焼け野原と化した。1870年、医学校と病院予定地として上野の山を視察した蘭医ボードウィンが、公園として残すよう日本政府にはたらきかけ、その結果1873年に日本初の公園に指定された。このことをもってボードウィンは、上野公園生みの親と称される。 なお、公園内に1973年から置かれていたボードウィン像は、オランダ大使館より公園指定100周年を記念して贈られたものであるが、製作時の手違いにより実弟(元駐日オランダ領事)の写真をもとにした像であった。そのため胸像取替えの活動が起こり、2006年10月6日に本人の像に変更された。

1992年頃に、当公園付近に不法残留の外国人がたむろし、変造テレカ等の売買など違法行為が頻発して問題になっていた時期があった。


上野忍岡遺跡の発掘
現在上野公園が位置する台地一帯は、縄文・弥生から古墳時代の遺跡、あるいは幕末維新期の動乱で焼失した、江戸時代の寛永寺の主要伽藍及びその子院群の遺構を地下に包含する、上野忍岡遺跡(うえのしのぶがおかいせき)でもある。 1994年より、再開発に伴う発掘調査が国立科学博物館構内を嚆矢として、国立西洋美術館前庭部分、東京芸大構内、東京国立博物館構内と続き、近年も台東区教育委員会による発掘調査が、公園内及び周辺地で断続的に続けられている。調査の結果は報告書として刊行され、科学博物館構内からは、寛永寺子院青龍院(しょうりゅういん)の遺構、弥生時代の竪穴住居跡、埴輪片が出土。隣接する西洋美術館構内からは、多数の古墳時代竪穴住居跡が確認され、かつて当地にあった寛永寺子院凌雲院跡の遺構、徳川吉宗側室の墓跡などが確認された。


引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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2008年01月28日 17:29に投稿されたエントリーのページです。

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